脳死と、一部の用語法について 柳田邦夫「犠牲」

 

20年前、移植医療の推進に向けて、

脳死」の定義や、それの医療における位置づけが盛んに議論されていた時期があった。

 

作家の柳田邦夫は、それまで医療に関するノンフィクション作品が多く、

当時、「臨時脳死及び臓器移植調査会」のメンバーでもあった。

 

そしてある日、彼の息子が自殺企図を経て脳死に至った。

それからの家族の日々が記されている。

 


Bob Dylan - Duquesne Whistle - YouTube

 

 

作中に提示される、「二人称の死」という言葉は重いものだと思う。

「一人称の死」、つまり本人にとってのもの。

「三人称の死」、つまり「交通事故で若者が五人即死しようとアフリカで百万人が餓死しようと我々は夜眠れなくなることもないし、昨日と今日の生活が変わることもない」と言えるもの。

そして離れたところに、「二人称の死」、

つまり「連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人の死である。人生と生活を分かち合った肉親が死にゆくとき、どのように対応するかという、辛く厳しい試練。」

 

3秒以上考えればグリーフ・ケアなんてバタ臭い言葉は恥ずかしくて使えないように思えるが、個人差の大きい部分なのだろうか。

 

 

もう一点、脳死判定基準について、「普通の人々の生活感覚では納得できない」と率直に書かれている。全くその通りだと思う。

死の判定がPDFでダウンロードできるなんて、あまりにも未来社会だ。

 

河合隼雄の言葉が引かれている。

「なぜ私の恋人は死んだのかというときに、自然科学は完全に説明ができます。

『あれは頭蓋骨の損傷ですね』とかなんとかいって、それで終わりになる。

しかしその人はそんなことではなくて、私の恋人がなぜ私の目の前で死んだのか、それを聞きたいのです。それに対しては物語を作るしかない。」

柳田の言葉が続く

「そういう局面で、医師にできることはほとんどないだろう。納得できる物語とは、その家族の人生歴の延長線でしか作りえないからだ。」

 

 

自殺した息子の日記を書きだしたり、あげく表紙をめくるとモンタージュにまでなって現れるところに終始、感傷性の悪趣味を感じたが、それでもなお素晴らしい著作だった。作家、あるいはジャーナリストはこうあるべきなんだという強い気概があった。

 

上に引用した文章は、こう続く。

「だが、医師や看護師は、患者・家族がこころを整理するための暖かい環境と『時間』を作ることができる。」

 

自分自身、これくらいの気概と謙虚さを持ち続けたいものだ。

 

 

犠牲―わが息子・脳死の11日 (文春文庫)