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「そう思い通りにならないことも能く承知してますから」   夏目漱石「道草」


「昔の因果が今でもやっぱり祟っているんだ」

こう思った彼はさすがに好い心持ちがしなかった。
どっちかというと泣きたがらない質に生まれながら、
時々は何故本当に泣ける人や、泣ける場合が、自分の前に出て来てくれないのかと考えるのが彼の持前であった。

「俺の眼は何時でも涙が湧いて出るように出来ているのに」

 

 

 

 


大した人間の大した出来事を書いているわけでもないのに
読後ずっと残るような後味の悪さを残すところが、文豪なのだろうか。

 

 

 


「役に立つばかりが能じゃない。その位の事が解らなくってどうするんだ」

 

健三の言葉は勢い権柄ずくであった。傷つけられた細君の顔には不満の色がありありと見えた。
機嫌の直った時細君はまた健三に向った。―

 

「そう頭からがみがみいわないで、もっと解るようにいって聞かして下すったら好いでしょう」

 

「解るようにいおうとすれば、理窟ばかり捏ね返すっていうじゃないか」

 

「だからもっと解りやすいように。私に解らないような小六ずかしい理窟はやめにして」

 

「それじゃどうしたって説明しようがない。数字を使わずに算術を遣れと注文するのと同じことだ。」

 

「だって貴方の理窟は、他を捻じ伏せるために用いられるとより外に考えようのない事があるんですもの」

 

「御前の頭が悪いからそう思うんだ」

 

「私の頭も悪いかもしれませんけれども、中身のない空っぽの理窟で捻じ伏せられるのは嫌いですよ」

 

二人はまた同じ輪の上をぐるぐる廻り始めた。

 

 

 

 

せめて一緒にいる人くらいは、思ったことを言える関係でいたいものです。

 

 

 道草 (岩波文庫)