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イデオロギーと科学の間に                    S・グールド「人間の測り間違い 差別の科学史」


 
この本の主張は、狭義には
「知能が一つの数値として計測されうるもので、かつそれは生得的に決定されて、且つ強い遺伝性がある。」...
という迷信を反証することだけど、
 
  
―こう書くと、イマドキそんなこと言うやついるのかよって感じだけど、
人種論を「科学的に」正当化したかった人たち(1920年代~)とか、
社会保障費を削減したかった人たち(70年代~)が引っ張ってくる主張で、

だから古くないどころか、
 いまこの瞬間にも、こういう主張を政治的に(あるいは本気で信じて)引用するグループってのは存在する。
神が7日間で世界を創ったって真顔で言う層ね。偶然の一致か知らないけど―
 
 
  
通して読むと、イデオロギーのために科学的方法論使うと、
当たり前だけど、専門家の検証に耐えるものはできないっていうことだろうか。
一方で元から賛同者が熱狂する。
広い文脈を考えるならそういうことだと思う。



「自分の主義主張のために科学的っぽい喋り方をしても、専門家の検証に耐えるものはできない」 っていうのは、プロセスとしての科学が ある程度には完成されているっていうことだろうとも思う。楽観的に考えれば。


もともとは純粋に教育的支援の必要とその方向を知るためにAlfred Binetが開発した
テスト(いまのスタンフォード・ビネー式知能検査)が、アメリカに移植されて
「痴愚は生まれつきのものであり、教育を試みることは社会的損失である」という主張に巻き込まれる過程は、
悲劇というか、百歩譲って喜劇というか…


前から不思議なんだけど
誰かを攻撃するときに、ヒトが外部的な根拠を求めるってのはなんでなんだろう。
「論理的な理由は特にないけど、僕は君のことが嫌いだから、攻撃する」っていうのと薄紙1枚しか距離をうまないような主張でもとりあえず手に持ちたがるのは、
「他人を悪く言うのはいけないことだ」っていう道徳が浸み込んでいるからなんだろうか。
 

よく理解できない。

 

 

 

おわり