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人の集まる場で、

自分の所属を言ったり、

あるいは何かの文章を発表するときも、

 

職場の名前のせいで

説得力がずっと強くなっている。

そのことに得意になっている自分もいる。

 

職場の権威が、

何か立派な行為に基づいてのものならともかく、

少なくとも現在のそれは

緊急措置入院だとか

超大規模精神病院だとか

そういう(時代遅れに)マッチョな部分に起因している。

 

このままここで長く過ごすのは良くないなぁ

というのが正直なところである。

ひとまずその直感に基いて行動してみることにしたのです。

 

プレコックス感」や「疎通性の障害」、を人に伝えるなら

 

電車の中で携帯電話を触っている人の表情、といえばごく近いかもしれない。

 

目前にいる自分にその顔を向けるひと。

精神運動興奮に至った人を、

社会から隔離するのを、本人のためだというのは詭弁だろう。

 

(幻覚妄想状態、という用語も慎重に使うべきだろう。

それが指している状態において「幻覚」「妄想」が証明される場合の方が少ない。

脳波検査ができない、

という本来の意味での「精神運動興奮」がもっとも誠実な語法のように思う。)

 

精神病性の錯乱は、

たとえジプレキサがなくても1週間程度のうちに収まるし、

 

それくらいの期間で

人生の方向をガラリと変える人間は一定数いるものである。

現れ方が違うだけで。

(突然の移住とか、色恋沙汰とか、色々。)

 

治安保持というのもどうだろう。

統合失調症者の犯罪率が一般人口のそれより低いことは

世界中の研究で一致していることだし。

 

「意味のわからないことを大声で叫んでいる」

「家の中で暴れていて手がつけられない」

その程度のことで

警察力の治安保持が作動するのか。

酩酊、前酩酊者がフラフラしている夜の街はどうなんだ。

 

 

精神科医も、行政が言っているだけの「急性期」に首を突っ込んでないで、

「慢性期」と呼ばれているところの、

実のところ重症者たちに目を向けるべきだ。

 

医者がいないと退院できない制度なのに、

そこに医者がいないというのはどういうことなんだ。

 

それよりも

何年間もベッドに縛り付けられている人たちをこそ助けるために

精神科医がいるんじゃないのか。

 

気仙沼日記22日目

 

一人で生活を続けるのが大変になったとき、

まとまった形の支援を得ようとすると、

やはり行政に手伝ってもらう必要がある。

 

そのためには、

書類をたくさん準備して、埋めて、提出することが必須である。

 

さて、

いわゆる認知症という状態の中に、

「Alzheimer型認知症」というのと、

「Parkinson病に伴う認知症」、というのがある。

 

Alzheimer型認知症は、

まず初めに、物事を順序だてて整理したりが苦手になる。

その代わり、今日はいい天気ですね、とか、すれ違う人に会釈する、とかは

相当に物忘れが進んでも、変わらなかったりする。

 

一方で、

Parkinson病に伴う認知症、だと

身の回りのことは自分でできるけど

対人的な交流とか、感情の微調整が苦手になる方が多い。

 

 

身寄りのない高齢者は、

山村にいると、

持ち家率の高さ&地域社会の濃厚さを背景に、

手続き能力よりも

第一に人付き合いである。それができれば食うのには困らない。

いってみれば、Alzheimerに優しい社会、である。

 

 

一方で都会であれば、

多少人付き合いが悪くなっても、

生活保護の申請をして、包括支援センターに行ければ、

意外と何とかなるものである。

Parkinsonに優しい、といえる。

 

 

 

気仙沼をみていると、

高齢化率が50%に迫り、

いくらコミュニティの地力があるとはいえ、

相互扶助だけでは立ち行かなくなっている。

今は医療者・ケアマネジャー・施設運営者が協働して、

生活支援の方法が再構築されつつある。

 

参画する人間が増えると、

筆記作業も並行して増えるものである。

 

この山奥で、恐らくはこの国で最後の

Alzheimer→Parkinsonという構造変化が起きている。

 

一時帰京日記 3日目

良いものを目指すために、

「統律」を掲げると、

それ自体は、新しいやり方を試行することだけれど、

その時に一つでもブンショが生まれると、

空気中の僅かなソウゴフシンとギシンアンキを栄養に、

ブンショは自己増殖を開始し、

規則を乗り越え、

それを生んだ目的さえ乗り越え、

その頃にはブンショを捨てる為にはさらに新しいブンショが必要になる。

 

 

ここに至ると、

人類には二つの選択肢がある。

 

1.

ブンショに少量の栄養を与え、

ブンショから与えた以上の熱量を得る方式に転換する。

これをカクバクダン方式という。

 

2.

ブンショの存在をダトウする。

これには初め、ブンショに変わるネッキョウを必要とする。

ブンショがダトウされた場合、

ネッキョウはその行き場を失い、

振り出しに戻る。

(ダトウされなかった場合は選択肢1に戻る)

 

気仙沼日記 15日目

震災が襲った後、

気づくと患者さんが集まって病院の掃除を手伝っていた、

というのは本当にすごいことだ。

 

自分の職場に、人は手伝いに来てくれるだろうか。

 

 

 

気仙沼日記9日目

(メモ)

そこで生活している人たちが

平常人のように鈍感ではなく、

平常人のように日和見主義でないだけであるとするなら、

 

Schizophreniaは内因性概念よりも、

むしろ反応性精神病の範疇で捉えられるのではないだろうか?

 

状態像としての

妄想症、幻聴症は確かにあるかもしれないが、

「基底症状」はどうだろう。

Schizoid概念を広くとることで、これを代替できないか。

 

通奏する陰性症状のうえに、

間歇的な陽性症状が出現するという伝統的な疾患観念は

 

陽性症状が大きな振幅をもっているのに比して

陰性症状」が時間的には(極めて緩やかに)漸増していくものであるのを考えると、

これは行動傾向(personality)とした方が適切であるように思う。

 

At Risk Mental State (ARMS)と言われる人たち、

顕在発症(臨床的には、独語や解体行動の出現)以前に観察されるのが

mildな自我障害であるのも、こう考えると説明しやすい。

(伝統的な精神病理学で自我障害がどう分類されるのか、浅学にして知らないが…)